今日は用事のついでに西本願寺に行ってきました
行ったことがあったかどうかも覚えていませんが
なぜ西と東に分かれたのかを改めて調べてみました。
時は文禄元年(1592年)、当時の龍谷山本願寺
跡継ぎ問題が勃発。時の将軍豊臣秀吉迄もを
巻き込んだ大騒動に発展します。
遺言に従い秀吉は、三男の准如(和睦派)
に10年後には住職を継がせるよう、臨時住職
であった長男の教如(抗戦派)に申し立てます。
教如は秀吉の10か条の申し立てに納得していま
したが、黙っていなかったのが抗戦派の取り巻き達。
ついに秀吉の怒りを買い、即刻追放されて
しまいます。
との交友があったため接近。
慶長7年(1602年)家康から烏丸七条に寺地を寄進
この年から現在に至るまで浄土真宗の2大総本山が
現京都駅の程近くにできたんですね!
*(TAP TRIP https://taptrip.jp/8885/)より抜粋。
とのことです。
西と東本願寺はもともと同じ教義だそうですが、
<なむあみだぶつ>と<なもあみだぶつ>の
ちがいとか、微妙な違いがあるそうです。
とても勉強になりました
NISIHONGANJI September.26 2018